大殺戮の申し子
~世界中を震撼させた破壊と殺戮の嵐~

  12世紀後半、中央アジアの乾燥した地域で、ある一つの凶暴な力が息づき始めていた。これまでは辺境遊牧民族として、他の勢力からは何の関心もなく、見向きもされなかったその弱小種族は、今後数十年足らずの間に、世界中のあらゆる諸民族に、経験したことのない大災難とはかり知れない悲劇と恐怖をもたらすことになるとは誰が予想し得ただろうか?
 歴史の中では、創造主の気まぐれか、ただの悪戯からか、どちらが原因なのか知る由もないが、時としてそう判断しないことには納得出来ないような事件や現象が起ることがある。

 その指導者チンギス・ハンが全権を掌握した時、その恐るべき力はものすごい速度で周辺諸民族に向けられ、果ては世界中のあらゆる国々にまで、途方もない被害と悲劇と恐怖を与えていったのである。

当時、南には強大な金帝国が立ちはだかっていた。そして、モンゴルに対抗するために強力な要塞都市をいくつも建設していた。さらに騎兵の大軍団を擁するだけでなく歩兵の大軍もつくって防備に備えていた。

やがて、金の領土に侵入したモンゴル軍は、そこで7万とも言われる金の大軍団に遭遇した。
異国の大軍との初めての会戦で、モンゴル軍はその破壊的な力を遺憾なく発揮した。わずか数時間の戦いで7万の大軍をことごとく打ち破ったのである。数年後、ここを旅した僧の一人は累々と散らばる人骨の大平原に絶句している。

金の大軍を蹂躙したモンゴル軍は怒濤のごとく、金の首都中都にまで侵攻して包囲した。籠城戦は数カ月に及び、人肉を食べるところまで追い込まれた篭城軍はついにモンゴルの軍門に下ってしまった。モンゴル軍の報復はすさまじく、開城されるや否や、騎馬軍団がなだれ込み、木造家屋に火を放って駆け巡り、民間人はすべて剣で切り殺され、市街地はすべて廃虚と化してしまった。

 この限りない大虐殺と破壊はたちまちニュースとして各地に広まって行き、ウイグル、契丹、高麗・・・といった国々はかなりの貢ぎ物とともに完全服従を申し出た。   
 やがて、西夏、カラ・キタイも一瞬に服する一方、金、宋の2代帝国をも倒し中国全土を配下においたモンゴル軍は嵐のごとく西にその鉾先を向け始めた。属国各地からは徴兵がなされ、モンゴル軍の規模は20万を下らぬ大軍団にふくらんでいた。その間、実に数百万単位のおびただしい人間が殺されたと言われている。
 

当時5000万人ほどいた中国の人口がわずか30年後にした調査によると約900万人ほどになってしまったというから虐殺の規模がうかがい知れる。
その怒濤のようなパワーは何ものも止めることは出来ず、人々はいたずらに無知と恐怖から混乱を招き、来るべき残虐な殺戮をただ待つしかなかったのである。

 やがて、次の目標として、中原最大の国ホラズム王国にもその残虐な刃が向けられた。もはや、いかなる慈悲をも通用しないと知った各都市は果敢に抵抗したがその運命は実に悲惨なものだった。

 ブハラ市は8万の守備軍を擁する強力な要塞都市だったが、半年持ちこたえた後、陥落した。開城とともになだれ込んだモンゴル軍は、守備兵を皆殺しにした後、住民のうち職人を除いて全員虐殺し、女は隔離した上で強姦し、奴隷として送りだした。          
 サマルカンド攻略では、捕虜を矢面にして戦わせて逃げる者あれば容赦なく背後より射殺した。モンゴル軍の攻撃は、苛烈を極め、巨大な石が、雨あられのごとく投石機によって打ち出された。それらは、城壁を壊し、中にいた人々を無惨に押し潰した。

 結局、1年は持ちこたえられると思われたサマルカンドは、わずか5日で陥落し、わずかな工芸職人を除き、70万の全住民は、男女、子供問わず、皆殺しにされたのである。 またこの時、ブハラ市の大守だったイナルチュクは生け捕られ、煮えたぎる銀を目と耳に注ぎ込まれて殺された。

 バルフ市においては、市民が貢物を持って降伏したにもかかわらず、いかなる哀訴もききいれられることなく、80万の住民、老人、女子供、犬猫にいたるまで、およそ生命のあるものすべてを殺し尽くして一晩で市を廃虚にならしめたのである。
 バルフ市は当時最大の都市の一つで、壮麗なモスク、宮殿があふれていたが、現在でも、無人の殺伐とした廃虚のままになっている。


 その際、数を記録するために遺体の片耳を切り落として集め、死骸は積み上げて男・女・子供ごとに分けて3つのピラミッドを作ったと記録されている。
 それでも、死体の山の中に隠れて生き延びる者がいたので、ニシャブールを落とした時は、遺体から首を切りはなし、その首を積み重ねて、巨大な首のピラミッドをつくったと言われている。


 ヘラート市では実に、160万人が殺され、バグダードでは、カリフが、和を求めてモンゴル陣営に入るや否や、たちまち約束を違えて殺し、その後、市内になだれ込んですさまじい略奪と殺戮を繰り返した。

 200万以上いたとされる市民はことごとく虐殺され、女と子供は奴隷として送られた。500年続いたカリフの血統は絶たれ、モスクと宮殿は炎に包まれ、中東最大の商業都市は完全に破壊された。
 記録によると市内で虐殺されたものすごい数の腐った死体から発せられる悪臭のために、モンゴル軍は野営地を引き払わざるを得なかったという。
 

 こうしてモンゴル軍が疾風のごとく西進するにつれ、中央アジアからイラン全土にかけてのあらゆる都市が完膚なき破壊と大殺戮の憂き目に合い、無人の廃虚と変わり果てていったのである。
 
 悪魔の遠征は、西へ西へと容赦なく続けられ、まもなくロシアの各都市は殺戮と略奪にあい次々と陥落していった。ロシアの諸候は震えおののいた。モンゴル軍の死の爪から逃れんと、おびただしい避難民がハンガリーになだれ込み始めた。


 かくのごとく恐ろしいモンゴル軍の接近に慌てふためいたヨーロッパではただちに、ドイツ、ポーランド4万の連合軍が組織され、この敵をリーグニッツ城の近くで迎え撃つことになった。

 ヨーロッパ連合軍にはさまざまな地域から勇猛で恐れられた騎士団も含まれていたが、モンゴルのすぐれた戦術で、たちまち数時間ほどで撃破され、騎士のすべては殺された。この騎士団を率いていたハイリク大公は逃げるところを殺され、その首は、刎ねられて槍の先に串刺しにされた挙げ句に、市壁ぞいにさらされた。

 丘は死体と血の海でおおわれ、この地はワールシュタット(死体の山)と呼ばれるようになったのである。
 
 リーグニッツの戦いからわずか2日後、サヨ川を渡り終えたモンゴル軍はそこに布陣する10万のハンガリー軍をたちまち撃破した。ハンガリーの死者6万。モンゴル軍は逃げる敵を追撃して容赦なく殺していった。街道には石切り場のように死体が散乱していたという。
 
 もはやここからは、大西洋まで、彼らの進撃を阻むいかなる勢力も存在しないと思われた。ヨーロッパ全土が、彼らに蹂躙され、はかり知れない人々が虐殺されることは、ほぼ間違いのないように思われた。まさに風前の灯火であった。

 しかし、この時、奇跡が起きた。モンゴル帝国の二代目のハン、オゴタイが急死したという知らせが持たらされたのである。そのため、司令官バツゥは、モンゴル全軍の撤退を決意した。こうして、間一髪のところで、ヨーロッパは、かろうじて壊滅と虐殺の危機から救われることになったのである。


 この悪魔の軍隊は日本にも2度攻めてきた。もしも、日本列島が大陸にもう少し近い位置にあるか陸続きであったなら、たちどころに蹂躙され、報復の破壊と大虐殺の目にあっていたに違いない。なぜならば、時の執権北条時宗は2度もモンゴルの使者を切り捨てているのである。そうなれば、その後の日本史はずいぶんと変わった経路をたどったことだろう。


 チンギス・ハンとその子供らは侵略戦争の論理を打ち立てて実践し、世界史上まれに見る大殺戮と破壊の限りを尽くしたのである。侵略戦争において、人間に本来内在する残忍性、怪物性をことごとく証明したと言えるだろう。

大殺戮の申し子
~世界中を震撼させた破壊と殺戮の嵐~

  12世紀後半、中央アジアの乾燥した地域で、ある一つの凶暴な力が息づき始めていた。これまでは辺境遊牧民族として、他の勢力からは何の関心もなく、見向きもされなかったその弱小種族は、今後数十年足らずの間に、世界中のあらゆる諸民族に、経験したことのない大災難とはかり知れない悲劇と恐怖をもたらすことになるとは誰が予想し得ただろうか?
 歴史の中では、創造主の気まぐれか、ただの悪戯からか、どちらが原因なのか知る由もないが、時としてそう判断しないことには納得出来ないような事件や現象が起ることがある。

 その指導者チンギス・ハンが全権を掌握した時、その恐るべき力はものすごい速度で周辺諸民族に向けられ、果ては世界中のあらゆる国々にまで、途方もない被害と悲劇と恐怖を与えていったのである。

当時、南には強大な金帝国が立ちはだかっていた。そして、モンゴルに対抗するために強力な要塞都市をいくつも建設していた。さらに騎兵の大軍団を擁するだけでなく歩兵の大軍もつくって防備に備えていた。

やがて、金の領土に侵入したモンゴル軍は、そこで7万とも言われる金の大軍団に遭遇した。
異国の大軍との初めての会戦で、モンゴル軍はその破壊的な力を遺憾なく発揮した。わずか数時間の戦いで7万の大軍をことごとく打ち破ったのである。数年後、ここを旅した僧の一人は累々と散らばる人骨の大平原に絶句している。

金の大軍を蹂躙したモンゴル軍は怒濤のごとく、金の首都中都にまで侵攻して包囲した。籠城戦は数カ月に及び、人肉を食べるところまで追い込まれた篭城軍はついにモンゴルの軍門に下ってしまった。モンゴル軍の報復はすさまじく、開城されるや否や、騎馬軍団がなだれ込み、木造家屋に火を放って駆け巡り、民間人はすべて剣で切り殺され、市街地はすべて廃虚と化してしまった。

 この限りない大虐殺と破壊はたちまちニュースとして各地に広まって行き、ウイグル、契丹、高麗・・・といった国々はかなりの貢ぎ物とともに完全服従を申し出た。   
 やがて、西夏、カラ・キタイも一瞬に服する一方、金、宋の2代帝国をも倒し中国全土を配下においたモンゴル軍は嵐のごとく西にその鉾先を向け始めた。属国各地からは徴兵がなされ、モンゴル軍の規模は20万を下らぬ大軍団にふくらんでいた。その間、実に数百万単位のおびただしい人間が殺されたと言われている。
 

当時5000万人ほどいた中国の人口がわずか30年後にした調査によると約900万人ほどになってしまったというから虐殺の規模がうかがい知れる。
その怒濤のようなパワーは何ものも止めることは出来ず、人々はいたずらに無知と恐怖から混乱を招き、来るべき残虐な殺戮をただ待つしかなかったのである。

 やがて、次の目標として、中原最大の国ホラズム王国にもその残虐な刃が向けられた。もはや、いかなる慈悲をも通用しないと知った各都市は果敢に抵抗したがその運命は実に悲惨なものだった。

 ブハラ市は8万の守備軍を擁する強力な要塞都市だったが、半年持ちこたえた後、陥落した。開城とともになだれ込んだモンゴル軍は、守備兵を皆殺しにした後、住民のうち職人を除いて全員虐殺し、女は隔離した上で強姦し、奴隷として送りだした。          
 サマルカンド攻略では、捕虜を矢面にして戦わせて逃げる者あれば容赦なく背後より射殺した。モンゴル軍の攻撃は、苛烈を極め、巨大な石が、雨あられのごとく投石機によって打ち出された。それらは、城壁を壊し、中にいた人々を無惨に押し潰した。

 結局、1年は持ちこたえられると思われたサマルカンドは、わずか5日で陥落し、わずかな工芸職人を除き、70万の全住民は、男女、子供問わず、皆殺しにされたのである。 またこの時、ブハラ市の大守だったイナルチュクは生け捕られ、煮えたぎる銀を目と耳に注ぎ込まれて殺された。

 バルフ市においては、市民が貢物を持って降伏したにもかかわらず、いかなる哀訴もききいれられることなく、80万の住民、老人、女子供、犬猫にいたるまで、およそ生命のあるものすべてを殺し尽くして一晩で市を廃虚にならしめたのである。
 バルフ市は当時最大の都市の一つで、壮麗なモスク、宮殿があふれていたが、現在でも、無人の殺伐とした廃虚のままになっている。


 その際、数を記録するために遺体の片耳を切り落として集め、死骸は積み上げて男・女・子供ごとに分けて3つのピラミッドを作ったと記録されている。
 それでも、死体の山の中に隠れて生き延びる者がいたので、ニシャブールを落とした時は、遺体から首を切りはなし、その首を積み重ねて、巨大な首のピラミッドをつくったと言われている。


 ヘラート市では実に、160万人が殺され、バグダードでは、カリフが、和を求めてモンゴル陣営に入るや否や、たちまち約束を違えて殺し、その後、市内になだれ込んですさまじい略奪と殺戮を繰り返した。

 200万以上いたとされる市民はことごとく虐殺され、女と子供は奴隷として送られた。500年続いたカリフの血統は絶たれ、モスクと宮殿は炎に包まれ、中東最大の商業都市は完全に破壊された。
 記録によると市内で虐殺されたものすごい数の腐った死体から発せられる悪臭のために、モンゴル軍は野営地を引き払わざるを得なかったという。
 

 こうしてモンゴル軍が疾風のごとく西進するにつれ、中央アジアからイラン全土にかけてのあらゆる都市が完膚なき破壊と大殺戮の憂き目に合い、無人の廃虚と変わり果てていったのである。
 
 悪魔の遠征は、西へ西へと容赦なく続けられ、まもなくロシアの各都市は殺戮と略奪にあい次々と陥落していった。ロシアの諸候は震えおののいた。モンゴル軍の死の爪から逃れんと、おびただしい避難民がハンガリーになだれ込み始めた。


 かくのごとく恐ろしいモンゴル軍の接近に慌てふためいたヨーロッパではただちに、ドイツ、ポーランド4万の連合軍が組織され、この敵をリーグニッツ城の近くで迎え撃つことになった。

 ヨーロッパ連合軍にはさまざまな地域から勇猛で恐れられた騎士団も含まれていたが、モンゴルのすぐれた戦術で、たちまち数時間ほどで撃破され、騎士のすべては殺された。この騎士団を率いていたハイリク大公は逃げるところを殺され、その首は、刎ねられて槍の先に串刺しにされた挙げ句に、市壁ぞいにさらされた。

 丘は死体と血の海でおおわれ、この地はワールシュタット(死体の山)と呼ばれるようになったのである。
 
 リーグニッツの戦いからわずか2日後、サヨ川を渡り終えたモンゴル軍はそこに布陣する10万のハンガリー軍をたちまち撃破した。ハンガリーの死者6万。モンゴル軍は逃げる敵を追撃して容赦なく殺していった。街道には石切り場のように死体が散乱していたという。
 
 もはやここからは、大西洋まで、彼らの進撃を阻むいかなる勢力も存在しないと思われた。ヨーロッパ全土が、彼らに蹂躙され、はかり知れない人々が虐殺されることは、ほぼ間違いのないように思われた。まさに風前の灯火であった。

 しかし、この時、奇跡が起きた。モンゴル帝国の二代目のハン、オゴタイが急死したという知らせが持たらされたのである。そのため、司令官バツゥは、モンゴル全軍の撤退を決意した。こうして、間一髪のところで、ヨーロッパは、かろうじて壊滅と虐殺の危機から救われることになったのである。


 この悪魔の軍隊は日本にも2度攻めてきた。もしも、日本列島が大陸にもう少し近い位置にあるか陸続きであったなら、たちどころに蹂躙され、報復の破壊と大虐殺の目にあっていたに違いない。なぜならば、時の執権北条時宗は2度もモンゴルの使者を切り捨てているのである。そうなれば、その後の日本史はずいぶんと変わった経路をたどったことだろう。


 チンギス・ハンとその子供らは侵略戦争の論理を打ち立てて実践し、世界史上まれに見る大殺戮と破壊の限りを尽くしたのである。侵略戦争において、人間に本来内在する残忍性、怪物性をことごとく証明したと言えるだろう。

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